2018年12月31日月曜日

2018年12月30日日曜日

2018年12月29日土曜日

幸せの水準

僕たちは幸せになりすぎたのかもしれない

「いじめた罰だ、学校まで歩きなさい――父親のしつけビデオで議論」


記事で気になったのはコメントにあるBBC読者のコメント


「この行動を取った父親を尊敬する。この人が問題にしているのは、いじめだけではない。最近の子供は確かに、自分は特別扱いされて当たり前と思っている」(クラウディア・グロットキャンプさん)

そしてこのニュースだ
「韓国式「チーズドッグ」ポイ捨てに困惑 新大久保「日本人のマナーどこへ」」

ここからは少し老害みたいな話になるけれど
私たちは満たされすぎて、少し、幸せがわからなくなってるんじゃないのか
苦労をしろ、不便であれということではないけれど(そう思っているけれど)

幸福も毎日幸福であればそれは普通になるように、
個を尊重し、意志を尊重し、自由を尊重する精神が悪い方向にいくとこうなっちゃうのかーって気がする

幸せのランクが一つ上がったというより
不幸のランクが一つ下がったような気分だ

高校生のとき、携帯電話を買ってもらえなくて
苦笑いで友達と話していたときの気持ちを思い出した
今は小学生からスマホだもんね

バイトを始め、やっと携帯電話を契約でき、PCを買えたとき、
周りは親が用意してくれて当たり前だった
携帯代は親が出してるのに「昨日電話1時間もはなしちゃったよやべーww」とか〇〇としか思わない

大学への入学祝いが入学金だったとき
周りは卒業旅行や新しい大学生活のために最新のPCやなんやかんやだった

ゲーム機も兄弟でやっと金を出した買ったPS2が1台家にあっただけ
最新機種や携帯ゲーム機持ってる人羨ましかったなぁ

自分の部屋?社会人で一人暮らしするまでもちろん無いよ
「部屋に入るときはノックしてよ!」とかちょっとよくわからないです

当時から考えても自分の生活基準が決して高い方でないことは把握していたし、
一人暮らししてからはそこそこの生活をしていると思ってる
だから皆も苦労しろというつもりはないし(気持ち的にはあるけどね)
自分がしてきた苦労や劣等感を、今ではまぁ精神性の成長にはなったよねと肯定的に思えてる

今より下を知っているから、私は頑張れるし上に希望を持っている
でも今の若い子はどうなんだろう?

気がついたらスマホを持ち、パソコンは家にあり、ゲームもオンライン環境も整備されていて、
なんなら趣味に必要なものも買い与えられている人がほとんどでしょう
お小遣いも今の相場とかだと月5000円とか?

中学生でスマホ持ってないなんて言ったら、それこそ当時高校生の私みたいな感じになりそうだし
いじめの対象になりそうだよね

でも話してみると、
親がうるさい、彼氏彼女と仲が悪い、通信制限うぜぇ、私を認めてくれない!と
選択肢を奪う行動や意見を嫌い、自分に都合のいい事以外は除外し、私を楽しませてくれる人が好きと、
今どき金魚だってそこまで水面でパクパク餌を待ったりしないよという気分だ

これらは一面的で、強調されているけど、
消去法の選択肢の中から、自分にしょうがないしょうがないと言いながら選択してきた私にとって
なんだかなーという気がするし、
苦労しろと思わずにはいられない

生活水準は一度上げると下げることは難しい
今得られているものは彼らからしたら当たり前の権利であり、無くなることは許されないだろう
今後も幸せの基準は上がっていって、不幸の基準はどんどん低くなる
そうなったとき
失って初めて気づくにはもう戻れないところに行ってしまう前に、
大人の私は次の世代のためにどう教えるべきか考えなくてはいけないよね

苦労させる以外に

2018年12月24日月曜日

デスチャ ラグナブレイク mini -Santa is Coming to City 攻略

ラグナブレイク mini -Santa is Coming to City の編成がやっとまとまって安定してきたのでメモ

無課金プレイ者の最近やっと100万ダメージ超えてきてコスをなんとか取れるようになってきた程度の者です

このパーティーでオート2倍速でだいたい100万~110万くらい
事故ると70万~90万になる感じ


2018年 有馬記念反省会

今年も有馬記念に行ってきました。
毎年友達との流れでたいして考えずにだらっと賭けていたんですが
今年はFIFAクラブワールドカップを見ながらちょっと考えたので結果を踏まえての反省会

G1や他のレースや競馬情報を追っかけているわけではないので
ネットから得られる情報で考えられる範囲で考えます




2018年12月23日日曜日

映像の世紀「戦争 科学者たちの罪と勇気」をみて


便利とは、幸せとは何だったろうか
包丁は調理を楽にし、人を殺す
木の棒は体を支え、人を殺す
情報は文化や文明を作り、人を騙し奪う

いつだって扱う私達が間違うばかり




ノーベル
この世の中で悪用されないものはない。科学技術の進歩はつねに危険と背中合わせだ。それを乗り越えてはじめて人類の未来に貢献できるのだ。私は平和的発案の促進の為、私の死後、大きな基金を残すつもりだ。ただ、私はその結果については懐疑的だ。遺産を相続させることはできるが、幸福は相続できない。

果たして乗り越えてこれたのだろうか
今の平和は何億人の死体の上にあり
私は死体の上で毎朝を迎えているに過ぎないんじゃないか

ラッセルアインシュタイン宣言
私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

戦争を体験したこともなく
もはや見聞すること自体が減っている世代だが

愛国心という言葉が嫌いだ
正義の旗を振った行動が嫌いだ

ユダヤ人のハーバーが開発した毒ガスは
多くのユダヤ人を死なせることとたった

知識や技術に善悪はなく
何時だって使う側が間違える
まるでこの世に神がいて調子に乗った人類に罪の精算を行っているようだと感じた

湯川真理を探求するということは結局は人類の為のものであり、社会に対して責任がある。その責任から逃れることはできない

いま、知識は技術は目に見えるものではなくなった
罪の意識はより薄まり 、判断や意志が介在するスキはどんどん減っていっている

便利なのが当たり前で
それを奪うものは悪だと罵る、得られない者は不平等だと責め立てる

もう一度考えよう
意志をもちそれに責任を持てるのか
持てなくてもその責任から逃れる事は出来ないのだから

2018年12月22日土曜日

ハースストーン、あるいはDCGに思う事


スポーツであれ、勉強であれ、ゲームには負けるべき、負けた理由が必要だ

それが理論的で明解であればある程人は
その勉強やスポーツやゲームをもっと上手く、強くなろうと思うのだと思うし、それが楽しい

負けるべくして負けたという事は
同時に勝てた理由がそこにもあるんだから

負けた理由が運や、金や、相性といったどうしようもない理由だったとして
だれがそのゲームをもっと頑張ろうと思うだろうか
努力しようと思うだろうか


2018年12月16日日曜日

ミオヤマザキ DIFFUSION@新木場STUDIO COAST


恐らく今年最後のライブに行ってきました。

動員的にはまだまだコースと規模ではなかったけど
この最初の、動員はままならなくてもファンとアーティストが一緒に盛り上がって、
盛り上げて行こうとするライブはベテランには出せない素敵な夜でした。

ニューミニアルバム楽しみです。


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2018年12月15日土曜日

映像の世紀「世界を震わせた芸術家たち」をみて


音楽の持つ力ってなんだろう

音楽の力を信じているのに、
それは何かと問われたら答えられなかった。






「NHKスペシャル 映像の世紀」
https://www.nhk.or.jp/special/eizo/program/
芸術家たちは作品によって人類が進むべき道を示し、社会の問題をあぶり出し、世界を変える力を人々にもたらした。動く映像として初めて記録された巨匠・ロシアの文豪トルストイに始まり、1920年代のアメリカで花開いたジャズエイジ、ユダヤ移民が築き上げた映画の都ハリウッド、ナチスに抵抗を続けたピカソ、チャップリン、そして戦後のベビーブーム世代を熱狂の渦に巻き込んだビートルズ、ボブ・ディラン、さらにはベルリンの壁の前のデビッド・ボウイの伝説のライブの映像などで20世紀をたどっていく。

歌う革命

バルト三国にて独立革命にてよく歌が歌われたことから名づけられた。
国歌、民謡、聖歌などが政治的に抑圧された社会で、
歌うことと、歌による繋がりの力を感じた。

Wikipedia 歌う革命
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E3%81%86%E9%9D%A9%E5%91%BD
プロパガンダとかに音楽が使われることはママあるけど、
政治色が強くなってしまうので正直好きではない。

でもこれは少し違うように感じた。
歌による言葉やメッセージの強調ではなく、歌うことによる繋がりや意志の共有が力になっていた。
特にライブに行くと感じる、一体感やグルーヴ感は音楽が持つ勇逸無二の力だと思う。
言語化するのは難しいけれど、あの共有間や一体感、幸福感は何なのだろう。
一つのものを好きな人同士が集まっているのだから当然?
本当にそうなんだろうか。

デヴィット・ボウイ


年代的に、正直知らない。知らなかった。
雑誌やCDショップ等で名前は知っていたけど「有名な昔の歌手」程度の認識だった。

ベルリンを横にライブをして、スピーカーをもう反対側へ届くよう向けた彼のライブの映像は最高だった。


http://performingsongwriter.com/david-bowie-songs/

どうしてこんなことができるんだろうと、
どうして自分はここでテレビを見ているんだろうと思わずにはいられなかった。

熱を伝える、意思を伝える手段として明らかに作られた曲は確かにあって、
そういうアーティストや曲は一生消えない。

ジョン・レノン(The Beatles)

もはや知らない人は少ないでしょう。
音楽の力ってなんだろう?と問うときに出てこない事はないでしょう。
考えられずにはいられない、想わずにはいられない。


どんな言葉も彼の音楽の前には安っぽくなってしまう。



見終わった後に「ほら見ろ!音楽に力がないなんて言ってたやつ!」とツイートしてしまった。
海外の事は知らないんだけど、
日本で「音楽で感動した」とか「音楽で救われた」というと、
どこか鼻で笑われるような風潮を感じるのはなぜだろう。
音楽では何も変わらないよと、政治的な、メッセージ性の強い音楽が好まれないのはなぜだろう。

心の内面を歌にするのを日本は得意だと思うに、それをはっきりと言葉に、歌にのせて歌われる歌は少ない気がする。

音楽に力はある、
誰かの意志を変えたり、世論を変えたりする分かりやすい力ではないけれど
強い想いが乗った音楽はその一体感や共感性を武器に人の心を動かす力がある。

でもそれを一番、日本の歌手が信じていないんではないか。
そして私も。

2018年12月8日土曜日

変えられない者の愚痴

世の中や物事に不満を感じたり「俺ならこうする」と思っても、 自分から周りを変えようとか啓蒙活動をおこなおうとは全くしないタイプです。


仕事中ネットサーフィンしてたら見つけた、
「〇〇退社しました」とか社内環境とか労働環境に関する最近ホットな話。

読んでみて、
誰かが声高に言うデータや情報に対する見方やとらえ方は今はとても複雑になっていて、
データ自体に間違いは無くても使い方でどうとでも印象を変えられるというのは既知の事実で、
やっぱり「知らない」ということが罪になる社会がどんどん近づいていることを実感した。

本来であれば設備投資をして生産性を高めなければならないのですが、人件費を削ることしかしてこなかった日本の経営者は「ブラック企業」批判を受 けて、対策として、とりあえず人手確保するしかできないでしょう。

最後の記者の所感。

うちの会社で起きていることがまさにこれだった。

私が入社した時はちょうど就職氷河期明けで、社内にはあからさまな手持無沙汰な人員はおらず、
社会情勢の厳しさも相まって少人数ながら上位工程、下位工程それぞれに必要な人員がポイントぽポイントでいて、
この人はすごい!学ぼうと思える人が各チームに一人はいた。

就職氷河期から完全に抜けた入社から3~4年目。
会社は内製をやめ、社内コストを抑えるために外注主体で案件を回しはじめた。
このころはまだ出来るPMや実務を理解しているPLが居たので、一部のいわゆる「できない人」が目立つくらいでとこまで大きな問題は無かった。

業務時間に対する規制や労働環境に対する風当たりが強くなってきた5年目から、ちょうど私がやる気を保てなくなってきたころ。
ポイントでいた凄い人は部長等管理職になり部署からいなくなり、実務を理解しPLなどをやっていた人は外注管理のみの業務に飽きて多くが辞めていた。
残ったのは表面化していた「できない人」。
その中でもさらにダメな人は職場の空気や新人など下からのカチ上げ等で違う部署に異動したり、させられたりした。

上位工程管理と外注管理に部署の方針を切っていた影響で社内知見が蓄積されないワークフローとなり、
大勢いるのは新入社員~5年目くらいの中間層、
知見の蓄積が無いので返って案件につぎ込む人数が増え、
問題トラブルが起きやすい構造になり社員の育成、成長が望めなくなり 、
急にワークフローが改善され人材が成長することもなく人がいないと泣いている。

結果論であり、
変えようと動くタイプでもないし、結果から当時の判断を批評するのは簡単だけど少なくとも今、限界が近づいている。

会社としての取り組みもマズかったのかと思うけど、
今残っている社員の思考や仕事に対するモチベーションが特にヤバい。
知財の蓄積とか、標準化とかってチームや部署で取り組むと効果が高いのはもちろんだけど個人でもできることじゃん。
業務の改善とか効率化とか大きなことをやるのは難しいけど、個人でもできることはあるじゃん。

なに言われたことを言われた通り、
目の前のタスクをただ早く帰りたい為だけにダルそうにやってるの?

学校のように数年したら進級や進学等で勝手に状況がかわるわけじないんだぜ?
終身雇用が多い日本であとそうやって数十年過ごすの?人生の無駄じゃね?
逆にまた社会情勢変わって雇用が厳しくなったらどうするの?黙って死ぬの?

社畜になる人は社畜になるべくして社畜をやってるんじゃねぇかって気さえしてくる。

2018年12月5日水曜日

はじめました

自分のことだからダラダラ書けばいいのに、
どこか誰かに見てほしい、
誰かに知っておいてほしい、
そういう気持ちを振り捨てる事ができずに書くものです。

こういう感情を承認欲求というのでしょうかね。

なにかテーマを持って書いたほうがいいと思ったのだけれど、
収益やPVが目的じゃないのでいいやと思い、
今まで書いていたブログからいろいろまとめた雑記形式に移行しました。

今までのはこちら
https://knownsound.blogspot.com/

主に趣味の音楽とか仕事のことについて書いていたんだけど、
どうにも更新頻度が良くないのと、テーマを絞ることによる更新のハードルが上がってしまっていたのが現状。

ブログとして書くにあたり、
「誰かにとって有益な情報でなくてはいけない」
「情報を発信するものでなくてはいけない」
といった事が本当に書きたいことなのかわからなくなっていた。

もちろんそうであった方がいいし、
誰だって全く興味ない人の日記なんかを読む時間なんて取りたくないだろう。

でも誰かのためにやるわけじゃない。
便所の落書きのように書きたいし。
チラシ裏のように感情を言葉にしたい。
ポエミーだっていいじゃないか。

そう思ったら、
フリー画像でサイトをおしゃれに!とかも後でいいやと思えたし、
俺が言葉にしたいのは自分の気持ちや意見であり情報ではないこともわかった。

だから、
たまに、
言葉にならない言葉を形にしていこうかな