RADWIMPSの「PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~」がすごい!
って言いたいなと思っていたらもうすでに言っている人がたくさんいた
けど言いたいのでなんやかんや書いていく
俺は音楽的に~とか時代や流行やなんやかんやはわからないけれど
上の記事の人とはなんとなく近いものを感じている
これ聞いて「RADWIMPSも炎上商法っすか?ww」とか言う人が居ないことを祈る
なんだろなー
どっちかに立ってどっちかを貶したいわけではないけれど
こうやってはっきり音楽に、言葉にして世に出したことはロックだなと思うし...
そういえば最近、
具体的な単語を使った歌詞って日本は少ないよね的な記事を見たのもあって
「日本語ポップスにおける「歌詞の曖昧さ」」
https://www.cinra.net/interview/201811-materialclub
前作あんなキラキラしたアルバム作って、
今回はあまりプロモーションもせずに出した作品がこれだったので
こいつぁやべぇぜ!ってテンションが上がりまくったのですよ
音楽性は俺にはわからないけれど
歌詞カードじっくり読みたくなる熱量を感じた。
でもきっと攻撃や非難はバンドではなくボーカル個人に向くんだろうし
バンドにしろユニットにしろ、フロントマンはそう受け取られがちな事は確かだよね
まるでフロントマン個人の意見や意志であるかのように勘違いされがちだ
これは多分世界各国どこでもそうなんだろうけれど
バンドをいろいろ見たり好きだったりして感じるのは
ある程度の知名度や人気から、バンドの物語からフロントマン(バンド名)という物語に主観が変わってしまう事がある
それまではバンドメンバー全員でのインタビューやバンドとしての特集が
フロントマン、作詞家へのインタビューや深掘り記事になっていく
もちろん私もそれを嬉々として読んでいる立場なので文句は無いが、
こういうところもコンテンツ化なのかなと思った
特に異性間の関係の場合(バンドマンが男、ファンが女性やアイドル、男ファンのような)これは顕著な気がする
悪意のある無し、他意であるかないかにかかわらず
多くの人の目に留まる人はアイコン化、コンテンツ化、パッケージ化されていく
一挙手一足等が彼の意志としてとらえられ、
会話の全てが意味のある言葉として掲載される
それを「他人の不幸は飯のタネ」と言わんばかりのやつらは滅びればいいと思うけれど
私達が応援していた、
有名になれ!ビックになれ!と通いつめたライブは
こんな未来を、こういう告白を聞きたいためじゃない
なにか具体的なことが言いたいわけじゃない
いつだって受け手側の私達がきをつけなくちゃいけないことだ
色んなことにフェアであることを気をつけなければ簡単に都合のいい情報だけを飲み込んでしまうんだから
RADWIMPS
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